旧下中島
 大川(現在の野田川、かつては市川の本流)と小川(現在は市川の本流、かつては分流)に囲まれた三角州に発達した村で、天正(1573年)の頃までは「中島村」、元禄(1688年)以降は「下中島村」と呼ばれていた。
 はじめは阿成村と共に西川庄に属し、後に下野田村と共に「飾磨郷」を起こした。明治22年(1889)町村制実施にあたり高浜村に属したが、同27年独立して村制をしき、飾磨郡中島村になり、大正8年(1919)飾磨町に合併した。
当時の中島小学校の校舎は飾磨小学校に移築され、現在の校舎ができるまでは北の校舎と呼ばれていた。また、創立当時の飾磨中部中学校の校舎としても利用されたことがある。昭和15年飾磨町が飾磨市になり、昭和21年には姫路市との合併により、姫路市飾磨区中島となった。
 現在の面積は約4.5平方キロ、世帯数約1200戸、選挙権の有権者数は約2700人、人口は約3300人である。また、小字は49に分かれており、住宅地・工業用地・農地が混在し、東は市川、西は野田川、南は瀬戸内海に囲まれている。新田開発と埋め立てにより面積は大きくなってきたが、過去は水害に見舞われることが多く、字「波止田」は現在市川の中にあり、大水害の名残といえる。
平成17年、土地区画整理事業がほぼ完了し、東北部には民家が、南部には工場等が建設されるものと思われ、中島埠頭の完成と共にコンテナヤードが建設される予定になっており、また現在の国道250号線の海側に市川を渡る新しい市川浜手大橋が平成21年(2009)9月26日に開通し、今後の発展が見込まれている。

中島南通り遺跡 飾磨区中島3丁目167番地先
 平成14年5月、飾磨区中島の国道250号飾磨バイパス道路改築事業に伴う発掘調査によって、室町時代後期の漁村遺溝とみられる掘立柱建物跡や溝などが検出された。石で護岸された溝からは、弥生土器、製塩土器、高杯、ふいごの羽口、備前焼、青磁、中国青花(染付)、土錘(魚網のおもり)などが多数出土した。
 中島地区は標高2m余の低地のため、以前から遺跡の分布は考えていなかったが、今回の発掘調査によって、室町時代、同地区において沿岸漁業がおこなわれていたことが実証された。

中島天満神社  飾磨区中島412番地
 創建年次は不明であるが、元禄7年(1694)に、蓮浄寺門前より現在地に移したとの記録がある。また、元禄8年(1695)の銘がある石造献灯が1基ある。
   元旦祭 1月 1日
   とんど祭 1月 中旬
   献湯祭(湯立て) 7月 12日
   夏祭り 7月 24・25日
   本 祭 10月 8・9日(現在は体育の日の前2日間): 地車(だんじり)、大屋台2台、中屋台3台、小屋台1台を繰り出す。地車には獅子頭があり、童幼音頭につれて曳引する。
   獅子舞楽: 本祭および元旦祭は、横笛の奏音により神前にて奏る。演目は、①式三番叟、②牡丹の舞、③長刀の舞、④桜の舞、⑤扇の舞、⑥御幣の舞、⑦地舞、⑧法螺貝(ほらがい)の舞 等がある。