町の由来
明治10年(1877)細江町と上町、2つの町を併せ天神町と改める。そして、家屋は総て天神町の名をつけていた。(例えば、国鉄飾磨駅を天神駅、シキボーの前身の福島紡績も天神の○○)その後人家が増し、昭和9年(1934)、天神と細江に分け、その際共有していた子供屋台を飾磨区思案橋に、大人屋台を大津区吉美に売却した。
そして、宮堀川より北を北細江、南を細江南に2分割したが、戦時中の物資の配給制度等により6つの町内会組織が生まれた。即ち、北細江、シキボー社宅(現 松陽台)、川内細江、西細江、南細江、中細江の各町で、当町が6町の中心的な役割を持ち、連合事務所も設置された。
公的な施設としては、25m の鋼鉄製の火の見櫓(戦時中、鉄の回収で撤去)、国旗掲揚台、消防分団車庫(大型手押しポンプ車)、マッチ工場、飾磨鉄工所、養鶏場(高倉神社の玉垣に石碑あり)等があった。また、娯楽施設として劇場(飾磨劇場)があり、温泉(飾磨温泉)や大衆食堂(うどんや)、小料理店、酒店(現存)なども揃って いて、戦中・戦後、大変な賑わいを呈した。さらに、町の端を播但線が走り、西細江との境界線をなし、これとの隣接地には浜砂墓地があり、元文(1736~1741)や明和(1764~1772)などの年号の刻まれた墓石がある。
高倉大明神 飾磨区細江795番地
中細江公民館の横にあり、通称 高倉さん として親しまれている。その昔、天神78番地の島田タバコ店の横に祠(ほこら)があったが、明治28年(1895)播但線・生野~飾磨港間の開通に伴い、細江804の溜め池を埋め立てた地に移転された。その後、大正14年(1925)9月地域住民信者により老朽化した社殿が再建され、さらに、昭和46年(1971)に公民館建設の気運が高まり、老朽化の激しい拝殿を撤去、跡地に公民館と社殿を再建し、現在に至っている。