元、飾磨川(かつての市川の本流、現在の野田川)の川口で、入江であったが、慶長年間に藩主・池田三左衛門輝政(慶長5年(1600)~元和3年(1617))が三左衛門堀を掘った時、その土砂をこの入江に捨てて向島を築いた。その結果、向島と岸との間が掘割のようになったので、田町の東の堀というので「東堀」(ひがしぼり)と呼び、やがて町の名となった。この河岸は、大阪・兵庫・明石・その他へ渡航する船舶の船着場として栄え、弘化3年(1846)に「飾磨の
湛保」を築港する以前は、飾磨の港と言えばもっぱらこの岸のことであった。
東堀町は慶長年間の地割りを残す港町で、古くから氏神・恵美酒宮天満宮の祭りに深くかかわってきた功績により宮本の座が与えられ、屋台に鎌の紋を使用することを許されております。また秋祭りには露払いとして氏子八か町の先陣をきることを合わせて認められています。

石造・道標 飾磨区東堀84番地(東堀公民館前)
角柱型。嘉永元年(1848)の銘。
(正面) 右 川口 あぼし むろ津
(左側) 左 ひめぢ ひろみね やか そね 高砂
(右側) 嘉永元年戊歳五月 東堀町
.jpg)
旧町会所跡(まちかいしょ)
東堀は、「飾磨の湛保」が築かれるまでの古い港町で、河岸には廻船問屋が軒を並べ、大阪・兵庫方面への船着場として大いに繁栄したという。
文政年間(1818~30)、播磨の特産品であった姫路木綿は、船場川を利用して飾磨津東堀町の木綿荷扱所に回漕され、江戸積みが行われた。東堀町会所の跡は、明治6年(1873)飾学学校に使用され、同10年(1877)姫路警察署の飾磨交番所が置かれた。明治の初期まで同地に建てられていた金刀比羅神社も今はなく、玉垣の一部は恵美酒宮天満神社境内に移設されている。