飾磨の中世城館・清水構居
「播磨鑑」によると、飾磨津の中世城館として、岸構居と清水構居が記載されている。岸構居については「シカラミノ城トモ伝」とあり、領主は佐野安芸守満行、英賀の一族とあるが遺構は不明である。一方、清水構居の領主は、はじめ森崎主殿で英賀の幕下。天正8年(1580)秀吉英賀攻略のとき、宮部善祥坊を清水構居の城主として居城させたとある。善祥坊は勇機の達人なり、秀吉に附従し三木合戦に忠義を顕し、英賀の戦にも武功あり、と書かれている。
「兵庫県飾磨郡誌」に、いま清水薬師の東南3町ばかり、野田川の付近に「城の内」という畑あり、方3・40間の高地にして、内3段歩ばかりは特に高し、構居は此処にありしなりという、とある。現在のジャスコ飾磨店あたりと推定されている。
旧上英賀町(かみあがまち)
当地にあった「飾磨薬師寺」という古い寺の境内に名泉があり、これから興って古くは「清水村」といった。しかし、天正8年(1580)の英賀城落城の後、英賀の町民が多数移ってきて、「英加町」と呼ぶようになった。その後、上下に分かれて、当町は「上英加町」となり、「清水村」の名は久しく廃れていた。
大正6年(1917)、大字の町村浦の文字を除くにあたって、「上英加町」を廃してもとの「清水」にもどした。
薬師寺・東光院(真言宗高野派) 飾磨区清水1-28
草創年代は不詳であるが、その昔「飾磨薬師寺」と呼ばれた時は、薬師如来を安置し、鎮護国家・万民豊楽の祈願道場として建立されたと言われ、七堂伽藍も完備していた。後に、赤松氏より寺領200石等の寄進もあって、荘厳を極めた時代もあった。また、羽柴(豊臣)秀吉の信仰も厚くて守護寺となったため、多数の法具の寄進もあった。そして、幾度の焼失・老朽化を経て、正徳3年(1717)恵賢が寺を中興し、東光院と改めた。原形は、昭和20年(1945)の戦火で消失の後、昭和28年(1953)に建立されたものである。
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