飾磨津河口は、浅瀬のため、200石内外の船がかろうじて出入りできる
程度であった。そこで、時の藩主・酒井忠実の許しを得て、大浜で肥料(干鰯)問屋を営む藤田祐右衛門維昌(これまさ)を中心に、弘化3年(1846)、「湛保」を築港することになった。この工事は、四国の丸亀港を参考にして、工費と
して銀600貫(諸説ある)を使い、排水のための水車も40数台使用するという大土木工事であったが、わずか6ケ月で完成した。このとき、掘り出された土砂を積み上げてできた小山は、弘化山と命名されたという。
 完成後は、北前船や西国船も停泊が可能となり、飾磨津の活性化につながった。そして、人々はこの港を「飾磨の湛保」と呼んだ。また、藤田祐右衛門維昌はこの功績が認められ、大年寄格となり、苗字も許された。