旧田町
 昔はこのあたり一面の田で、前は入江でヨシが茂っていた。慶長年間、藩主・池田三左衛門輝政(慶長5年(1600)~元和3年(1617))が三左衛門堀を掘り、その土で向島を築いてから東堀が船着場となり、この辺りも家が建ち並び、繁盛したので「田町」(たまち)と名づけた。
 大正6年(1917)、大字の町村浦を除くにあたって、「田」では変なので「玉地」(たまち)と改めた。

向島地区(むかいじま)
 姫路城の外堀である三左衛門堀(姫路市北条)を掘った土砂で埋め立てられ、藩主・池田三左衛門輝政によって創設された藩の水軍御船手組が置かれていた。そして、野田川(かつての市川の本流)沿いに松林が連なっていた。当時の繁栄を、同時期に建立された稲生社(玉地のお稲荷さん)で見ることができる。
向島橋  飾磨区玉地76番地地先
 現在はコンクリート製の近代橋になっているが、旧橋(昭和9年(1934)架)の欄干の装飾は旧飾磨町章(大正8年(1919)制定)で、シカマのカを図案化し、錨(いかり)を表したものであった。その一部は、現在の橋の袂に保存されている。

向島橋

旧姫路藩御船役所跡碑   飾磨区玉地96-19地先
 向島一ツ橋北詰に建てられている。
 御船奉行所とも呼ばれ、藩主・池田輝政によって創設された姫路藩水軍(御船手組)の基地で、向島にあった。役所内には、御船作事所、小船頭矢倉詰所、勘定役詰所、目付小奉行、棟梁総大工詰所、御船道具置場、馬屋などが置かれ、御船手と呼ばれる士族が常駐し、藩の海事業務を取り扱っていた。定員は200名で、「城付き」(藩主が国替えになっても従わず、そのまま新藩主に仕える)の特例があった。保有船舶数は時代によって変化はあるが、約60隻と言われている。

旧姫路藩御船役所跡碑

稲生社(いなお)  飾磨区玉地84番地
 玉地のお稲荷さんとして親しまれている。境内の井筒・手水鉢は、文久2年(1862)2月、姫路御船役所が寄進したもの。裏面に、井筒手水鉢・寄進御船役所、下里平太、年紀が刻まれている。下里平太は当時勘定役を勤めた御船手で、兵船の船長クラス。玉垣には、御船手組末裔の名前も見受けられる。

稲生社