旧須加町(すかちょう)
 元、飾磨津の南端。この地の起名については諸説あるが、昔、この陸地の端が砂
で高く盛り上がって、鳥の嘴のように海中に突き出ていたので「須加」(すが)と言ったようである。


姫路藩浦手番所跡 飾磨区須加197番地先
 飾磨津川口御番所とも呼ばれ、姫路藩が船舶出入りの多い領内の港に設置した番
所で、室津、高砂、家島にも置かれていた。
 その任務は、燈籠台(灯台)の管理、出入船舶の検問・取締り、海難救助、公儀
船の寄港上陸についての情報収集に当たる他、飾磨米蔵、御茶屋の警備も担当した。
 配置人員は、目付以下数名の定番が勤務し、鉄砲、弓などの武具も備え付けられ
ていた。番所の位置は確認されていないが、飾磨区須加の民家が、屋根瓦・内部の間取り・造作などから、川口御番所に併設されていた長屋の遺構と推定されている。

飾磨津灯台  県立飾万津臨海公園内
 須加の飾磨津臨港公園に復元されている「飾磨津灯台」は、昭和12年(1937)に飾磨港の西防波堤に設置されたもので、高さ約10m の丸型、鉄筋コンクリート製。光源はアセチレンガスを使用、燈光の到達距離は20km あったが、新型防波堤灯台の設置により、昭和41年(1966)に廃止となり、中島の地先、野田川尻に放置されていたものである。
 灯台は、古く燈明台・燈籠堂・かがり屋と呼ばれ、船位の確認、陸の取り付き、変針点、港の口、危険箇所などに人工的につけられる燈光をさすが、「日本燈台史」などによると、江戸時代には、約100箇所の燈明台が設置されていた。それらは主に、藩や廻船問屋、地元の有力商人などによって建てられたものであるが、海岸近くの社寺の常夜燈が、燈明台の役目を果たしていたという伝承が数多く残されている。
「航路標識管理所年報」(明治38年刊)によると、室津燈明台の創設は、正保
年間(1644~)、創立者は姫路藩。飾磨港燈明台は、文化3年(1806)、
該港人民協議費による創設となっている。 (昔の飾磨津灯台)「飾磨津灯台」復元の除幕式は、平成5年7月20日に行われた。