
楽市楽座が毎月1回(第4日曜日)開催されています。午前9時から午後2時頃まで、季節の野菜や書画骨董・飲食店などのブースが20ほど出店します。
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【本徳寺の歴史】
天正年間(1580頃)、羽柴秀吉の播磨攻めによって、英賀城は破却、播磨における浄土真宗教宣の本拠であった英賀御堂は解体されて、亀山に移された。その時、屋根瓦1枚に至るまで同行衆の手渡しによって、亀山の地に運ばれたと伝えられている。
そのルートについては諸説があり明確ではないが、現在、飾磨区構の集落内に建立されている「かめ山道」「あがほ道」を案内した3本の石製道標によって、亀山・構・英賀の古道を復元することができる。
これらの道標のうち、1本は板状の凝灰岩の中央部を彫りくぼめ、「左かめ山道」と施刻、記念銘はない。他の2本は高さ80cm 位の角柱で、大正6年(1917)銘。6名の有志者の氏名が、それぞれに施刻されている。地元の伝承によれば、この「あが・かめ山」を案内した道標は、当初6本建立されたといわれるが、いずれも英賀方面の信者たちのために、亀山本徳寺への参詣道を案内した
もので、年代的には大きな開きがあるが、英賀御堂が亀山の地に移されたルートの痕跡ではないかと考えられる。

「姫路の文化財」第1巻(姫路市教委編)によれば、本徳寺大広間、経堂、本堂、庫裏、大門が県指定、伽藍内建築が市指定の文化財、国登録の建造物となっている。なかでも本堂は、もと西本願寺の北集会所(きたしゅうえしょ)として建てられ、一時、新撰組の屯所となり、その後、学林の大講堂に予定されていたが、亀山本徳寺の本堂を焼失していた播州門徒の強い要請により、京都より亀山に移築されることになった。
この間の事情について「播州真宗年表」 その他によれば、構造材は勿論、床材、屋根瓦に至るまで、海路を輸送、亀山での組立て工事は2年を有し、移築のための募財が播州一円の門信徒によってなされ、明治6年(1873)に、完成をみたと記されている。また伝承によれば、本山よりの解体資材は、海路飾磨津に運ばれ、同行衆の手渡しによって、飾磨街道を経由、亀山に運ばれたと伝えている。

