「飾磨津」 は、「飾磨」 の海岸で、船が着き、客や荷物を渡したのでこの名となったもので、室町時代から安土時代にかけて戸数を増やし、特に天正8年(1580)、英賀城主・三木通規が織田信長と争って、羽柴(豊臣)秀吉の軍に攻められて落城したことにより、英賀町民が多数移り住んできて「英加町」などが起こり、さらに戸数が増えた。
 そして、飾磨が本格的に発展し始めたのは、天正9年(1581)、羽柴(豊臣)秀吉が三層の天守閣からなる姫路城を築き、姫路城下の外港として重要な役割を果たすようになってからである。
しかしながら、元和8年(1622)頃になっても、姫路城下と「飾磨津」とを結ぶ船場川筋はまだ十分に整備されていなかった。
 そのため、円教寺修復のために大阪で購入した材木も、まず飾磨津まで回漕し、そこから「飾磨津衆」が宮堀川から船場川へと川舟でつないで片町(備前橋門前から車門前辺り)まで運び、さらにそこから姫路町の年寄達が運搬するという、苦労の連続であった。
 そこで、寛永元年(1624)、時の藩主・本多忠政は、船場川筋の普請を命じ、その竣工にともなって川筋の一部に材木町をつくり、そこへ他町の材木屋を強制的に移住させたりもした。
 この頃の飾磨津には、すでに嶋屋・魚屋・菊屋・亀屋の魚問屋も存在し、物資の集散も活発に行われていた。
 寛文7年(1667)の史料によると、「飾磨津は古来より御船手役を勤めてきており、海手の漁業を生業とし、その数は500人余に及ぶ。そして、次の4人(嶋屋 九郎左衛門、魚屋 彦太夫、菊屋 源左衛門、亀屋 次郎兵衛)に魚問屋株を保証し、営業を独占させてその生業を守る」というものである。
 ただし、18世紀になっても、この港の水深は浅く、西廻りの千石船は入港できないため、「飾磨船」という小船によって大阪などへ物資の輸送をしなければならなかった。
これが解決したのは弘化3年(1846)で、時の藩主・酒井忠実の許しを得て、飾磨の大浜で肥料(干鰯)問屋を営む藤田祐右衛門維昌(これまさ)が地元の人たちと相談し、丸亀の港を雛形にして築港工事を行った。
 その港は、堤防の高さ6.8m、港の広さ 東西120m、南北151m、水深は満潮時3.6mの立派なものであった。そして、人々はこの港を「飾磨の湛保」と呼んだ。
 これ以降大型船が自由に出入りできるようになり、北前船や西国船の寄港や年貢米の運搬など、諸物資や商人でにわかに活気付き繁盛した。
 そして、飾磨津河口には諸問屋の倉庫が建ち並び、姫路藩の外港として重要な位置を占めた。


飾磨津町
 この時代の「飾磨津町」とは、外堀にある飾磨門の西側の忍町、南側の豆腐町からほぼ船場川に沿って、約5kmばかりを飾磨湊に向かって南下した一帯に開けた町場を指している。
 現在の飾磨と関係している町としては、須加町、細江町、上町、大町、宮町、御幸町、東堀町、田町、上英加町、下英加町、都倉町の11ケ町を指している。
 この内、須加町、大町、宮町、御幸町、東堀町、田町の6ケ町を「浦手」(うらて)、細江町、上町、下英加町、上英加町、都倉町の5ケ町を「岡手」(おかて)と呼び、東堀町には、姫路忍町以南の町方20ケ町を支配する「町会所」が置かれていた。
 また、上英加町は現在の清水、下英加町は栄町、大町は大浜、田町は玉地、細江町と上町は明治10年(1877)に合わせて天神町と改めた。
 江戸時代の飾磨津の繁栄振りを示す資料として、元文5年(1740)、飾磨津町の20ケ町がそれぞれに負担した「地子銀高」(市街の屋敷地に課せられる税、それを銀で納めた)がある。それによると、浦手にあたる東堀町・御幸町・宮町の3町は、20町中では最も多額の銀7~800匁台の地子銀を負担している。


近世飾磨の町並み構成と景観
 近世、姫路城下の外港として重要な役割を果たした飾磨(飾磨津)の、前期の町並みの様子は知りがたいが、後期、酒井時代(1749~)における都市構成については、「飾磨津町絵図」からおおよその概要を知ることができる。
 この絵図には、藩の船役所が置かれた向島や船入の様子、寺院をはじめ、高札場や番所、御蔵など藩政にかかわる諸施設の位置、道路や水路の形態と町の範囲などが詳しく描かれている。
 試みにこの絵図を現状の地図と重ねて見れば、船入の形状については近代以後の埋め立てにより、一部を除いて地形的痕跡はほとんど留めないものの、寺社の位置をはじめ街路形態は当時の状況がほぼ変化なく現在も受け継がれていることがわかる。そして、酒井時代には現在の市街地の主要な部分も、このころにはすでに町場として成立していたことが確認できる。
 これら諸町の中で御幸町については、文政9年(1826)「飾万御幸町水帳」から、当時における町家個々の宅地割の状況を子細に知ることができる。この史料によると、近世後期における飾磨の市街地は、間口幅2~3間ほどを中心とする狭小の間口に宅地は細分化され、かなりの高密であったことが知られ、姫路城下と比べても遜色のないほど都市化が進んでいたことがうかがえる。
 さらに、飾磨津と姫路城下との往来筋も、各々所属する村の名前をとって町名とするなどして、かなり町場化が進んでいた。たとえば、本徳寺領である亀山に位置する街道筋も亀山町と呼ばれ、すでに飾磨と一体化していたことが指摘されている。
 この飾磨街道沿いの町並みの景観を描いた絵図(飾磨街道を含む恵美酒村の田畑に関する明治5年(1872)作成の検地絵図)が発見された。それによると、街道沿いには、両側にぎっしりと建ち並ぶ民家を瓦葺き、茅葺きに描き分けて丹念に描いており、明治初期においても街道の両側の民家は茅葺きが多く、瓦葺き民家と混在する町並みであったことがうかがえる。
 しかし、瓦葺き民家の中には「つし2階建」(2階が低い家)の町家風の外観を持つ例も散見され、街道筋の町並み景観はかなり多彩であったと考えられる。
 なお、現在も通りに沿って町家が多く散在し、当時の面影を一部に留めているが、茅葺きの住宅は残っていない。

明治時代の地図


近世の飾磨街道、早鐘による緊急伝達網
 近世の飾磨津は、姫路城下の水陸の結節点として重要な位置を占めていた。通称「飾磨街道」は、姫路城外堀の飾磨口門から、豆腐町を経由して飾磨津に至る約4km、標高差約10mの南北に走る直線道路で、姫路城下と飾磨津を直結する産業道路である一面、姫路藩領の海岸線防備という軍用道路の性格も持っていた。
 「姫路藩・異国船渡来の際の海岸警護につき通達」(酒井家文書)によれば、異国船発見の場合、近辺の社寺の鐘によって姫路へ知らせるとある。この通達によると、合図の早鐘を撞き、御城下に至り惣社、雲松寺、景福寺、光源寺、神屋宝積寺でも早鐘を撞き、この合図によって姫路藩より一番方が飾磨の砲台に駆けつけたとある。
 室津「未大帳」(御津図書館蔵)には、飾磨津から姫路城下までの早鐘のルートと、早鐘の種別が記載されている。
 それは飾磨街道沿いに設定されており、飾磨津浦手番所 → 圓光寺 → 亀山本徳寺 → 道筋法専坊 →
飾磨口光徳寺となっている。
 また、姫路城下の早鐘伝達について、「軍事所に於いて鐘合す、第一これを晴光寺に受け、四方諸寺に合わす」(以下略)とあり、南方は、飾磨口光徳寺、道筋法専坊、亀山本徳寺、飾磨圓光寺(町名は原文のまま)とあり、社寺の早鐘によって姫路藩の緊急伝達網が設定されていた。
早鐘の種別については、1番鐘から4番鐘まで記載されている。
 1番鐘撞方 ●―● ●―●
 2番 同断 ●●―● ●●―●
 3番 同断 ●―●―●―● ●―●―●―●
 4番 同断 ●―●●―●●―●●―●
 室津「未大帳」によれば、姫路藩御用場から、大庄屋・大年寄所に回達された触(ふれ)の中で、早鐘について、平時でも訓練のため撞くことがあるので、動揺しないようにとの通達が出されている。

亀山本徳寺


飾磨地区の町家の建築的特徴
 当地区の現存する町家は、ほとんどが明治以後(1868~)のものである。
 平面は、「一列三間取り」、および「二列六間取り」を基本形とし、この点では、城下の町家平面と共通する。また、当地区の明治初期の町家にはすでに2階居室が成立していることから、城下の町家における2階の居室形成を年代的にほぼ追随している。さらに、構造も主要な柱を通し柱として建ち上げ、胴部に胴差を渡して2階の床面を支持する形式をとっており、これも城下の町家とほぼ同じである。
 このように、平面、構造、2階居室の成立時期などの点で、当地区の町家は城下の町家形式との強い関連性が認められる。
 これは、当地区が姫路城下と「飾磨街道」で結ばれ、城下の外港として栄えたという、近世から近代にかけての両地区の密接な関係と関連しているためと考えられる。


維新期の経済改革
工部省鉱山寮馬車道の修築
 江戸時代には天領として、幕府の有力な財源となっていた生野銀山は、維新の改革によって明治政府が接収、多くのフランス人技師の雇い入れによる洋式技術の導入によって、その業績は飛躍的に増大していった。
 当時、生野銀山で使用する石炭、塩、雑物など、年間8500トンの資材のすべては、飾磨津から陸送されていた。この輸送費が年間約13万円。これを一挙に八分の一に圧縮しようとしたのが、飾磨津・生野鉱山間(約49km)の馬車道の修築であった。
 この工事は、当時の生野鉱山の責任者・朝倉盛明(元、薩摩藩英国留学生)の建議によるもので、新道の修築は、フランス人技師レオン・シスレイを技長として、マクアダム式の道路仕様によって、明治6年(1873)に起工、8万8千円の国費によって、同9年に完工。わが国の道路築造史上、国道の初見とみられる。
飾磨区宮の浅田化学工業(株)正門前に、説明版が建てられている。


馬車鉄道から汽車鉄道へ
 飾磨馬車鉄道の敷設に関する史料として、明治20年(1887)11月5日、神東郡東川辺村・内藤利八ほか8名による「生野飾磨津間馬車鉄路布設之義二付御願」が、「福知山鉄道管理局史」(昭和47年)に記載されている。
 この願書によれば、馬車鉄路は但馬国朝来郡生野より、播磨国神東神西二郡を貫通、飾東郡姫路を経て飾磨港に達するもので、このルートについては、後の生野鉱山局長・朝倉盛明が、明治4年(1871)の「取調候書付」の中で「鉄道築造の見込も不相立候」と記している路線と同一のルートをとっている。
 馬車鉄道は、道路面にフランス人・ドコビール開発の梯形鉄路を敷設、馬によって車両を引かせるもので、鉄道の先駆的な輸送手段であった。飾磨馬車鉄道は、明治21年(1888)5月敷設許可を得たが、翌年には馬車鉄道を蒸気鉄道に変換する願書が出された。このように馬から蒸気への動力の変更が、播但鉄道(現JR播但線)の始まりとなるのである。


さらに播但鉄道の創立へ
 明治22年(1889)の播但鉄道会社起業目論見書によると、本社は播磨国飾東郡飾磨に設置、線路は、播磨国飾東郡飾磨に起り、同県但馬国朝来郡生野銀山に達す、とある。これは播但鉄道(飾磨・生野銀山間)の創設というよりも、馬車鉄道の既得権を利用した汽車鉄道への変換との見方もある。
 飾磨馬車鉄路布設の申請者筆頭の内藤利八は、中播開発の先覚者で衆議院議員。政治家というより実業家であったと言われる。
 当初播但鉄道は、市川東岸沿いにルートを設定したが、住民の理解が得られず、中でも農民の激しい反対があり、やむなく市川西岸の山裾にルートを変更した。その理由は、「汽車が通れば石炭の煙で稲ができない。火の粉で火事になる」といったものだが、最大の理由は、「江戸期以降、播但の水運、陸運に従事してきた人々が、その収入源を失う」ことにあった。
 明治28年(1895)4月14日、播但鉄道(飾磨・生野間49.2km)全線が開通した。この日、生野駅頭では盛大な開通式が行われた。
 明治30年(1897)11月21日には、天神駅(飾磨駅)、同年12月1日には亀山駅、豆腐町駅を開設したが、明治36年(1903)4月、事業不振のため山陽鉄道に買収された。その理由は、生野鉱山関係の物資が鉄道輸送されなかった等によるものと言われている。
その後、明治39年(1906)3月31日「鉄道国有法」が公布され、同年12月1日、官鉄がこれを買収して線路名を「播但線」とした。


北前船と飾磨
 平成8年、福井県南条郡河野村が、北前船主の「右近権左衛門文書目録」を刊行した。これは、日本福祉大学が文部科学省の助成を受けて、北前船主右近家所蔵の古文書を整理、丸3年かけてマイクロフィルム化したものである。その中で、右近家の廻船が全国各地の港で商品を売買した際の仕切り状、受領書類が9332点、その内播磨関係は152点。明細は飾磨121点、室津14点、岩見8点、高砂7点、的形2点となっている。
 北前船主右近家は、飾磨に支店を置き、取引のほとんどが岡上彦一関係となっている。他に内国通運会社飾磨取次・大森勇助、飾磨宮町・松田木十郎、飾磨港・飾洋社、浜田藤次郎などの史料が残されている。このように北前船主右近家にとって、飾磨は瀬戸内での重要な取引拠点であり、商況情報の集約地としての機能を有していたことが判る。
 「右近家文書目録」の播磨関係の仕切り状を見ると、飾磨からは、もち米、麦、豆、米、味噌、友白髪(ともしらが)印素麺、古手(古着)などが積み込まれ、上り荷として、鰊(にしん)、〆粕(しめかす)、鰊粕(にしんかす)、白子(しらこ)、数の子などが飾磨や室津で陸揚げされている。
 北前船の西廻り航路は、大阪から瀬戸内海を経由して日本海に入り、北海道に達する上方経済の根幹を支える重要な航路であった。
 北前船の特徴は独特な商売の方法にある。それは運賃積みをとらず、多くは自らの商品を自らの船で商売して廻る買積船で、早く運ぶ運賃稼ぎより、各地で買い集めた商品を有利な土地に運んで高く売るという、運賃よりも価格差で利益をあげる商法で、菱垣(ひがき)廻船や樽(たる)廻船と基本的に異なるところである。したがって北前船の船頭は、航海技術もさることながら、商才も不可欠な条件であった。
 北前船は他の廻船とくらべて経済性が極めて高く、多くの有力船主たちを生んだ。日本海5大船主の1人、浜の宮天満宮に石牛を寄進した右近家も、最盛期には30余隻の廻船を所有、日清・日露の戦後には数隻を軍用に供し、その中でも旅順港閉塞作戦に参加、広瀬中佐・杉野兵曹長らが乗り組んだ閉塞船・福井丸(排水量4000トン)は、右近家の所有船舶であった。

 

初代飾磨市長の銅像

播磨火力電気(関西電力株式会社の前身)
 第1次世界大戦を経て、工場の動力としての電力需要の高まりの中で、大正8年(1919)11月には飾磨火力発電所(出力3千kW)の建設に着手し(大正10年2月竣)、翌年には飾磨第二発電所(出力2万kW)の建設に着手した(大正12年1月竣工)。
 さらに、昭和7年(1932)には、飾磨第三発電所(出力3万5千kW)が運転を開始した。そしてこの発電所は、昭和17年(1942)日発飾磨港発電所(出力6万5千kW)と改称された。
 太平洋戦争後は、播磨工業地帯復興の原動力として稼動し、昭和26年(1951)に関西電力(株)に引き継がれ、同28年、7万5千kW に (飾磨港発電所の6本煙突)
増出力されたが、老朽化し解体され、現在は飾磨港変電所になっている。後継の姫路第一発電所は、わが国初の多軸再熱型コンバインドサイクル発電システムを導入し、低公害のLNG(液化天然ガス)を燃料とし、出力144万2千kW、一般家庭約45万戸分の発電を行っている。

播磨水力電気